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たばこや蒲鉾店(高松市西内町)

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天ぷら

私は高松を歩くのが好きです。

そして、高松に行くと決まったその時から、うどんが頭の中を徐々に占領しだしますから、第一歩を踏み出す頃にはもう、だいたい行き先のうどん屋は決まっています。

天保国絵図に描かれた讃岐国。高松と丸亀に陸上・海上の両ルートが集結している。(Created by modifying 国立公文書館デジタルアーカイブ, CC BY 4.0

うどん県と名高い香川県ですが、高松は街歩きの楽しい街です。まあ、実際のところ、レンタサイクルを利用することもあるのですが、体を動かしながらうどん店巡りを楽しめる場所は、うどん県広しと言えど(実際はそれほど広くありませんが)高松くらいしかありません。何玉ものうどん玉ではち切れんばかりの腹を揺すりながら、次の店に着くまでに少しでも胃に隙間を作ろうと努力するバカバカしさは、高松を歩く醍醐味の一つです。

レンタサイクルの利用料金は一日(7:00~23:00)¥200。高松は平地の街。つまりうってつけ。

そんな私ですが、高松駅(港)から真南にルートを取る場合に、立ち寄るようにしているお店があります。たばこや蒲鉾店です。

「たばこや」と書いてありますが練り物屋さんです。年季の入った外観に、「本場さぬきの天ぷら」と書かれた小さな立て看板が目印です。

(© 2019 kukurunbo)

ハイカラ洋食、テンペーロ。

「天ぷら」と言えば、食材に衣をつけて揚げた、海外でも人気の日本料理ですが、西日本では、魚のすり身を揚げたものも、「天ぷら」と呼ぶ習慣があります。

元々「テンプラ」とは、16世紀にポルトガルの宣教師によってもたらされた南蛮料理の名前です。水で溶いた小麦粉を衣にして揚げた料理で、その語源は、ポルトガル語で調味料や調理を意味する「tempero(テンペーロ)」や、寺院や斎日を意味する「têmporas(テンポラス)」などと言われています。何でも、カトリックの世界には、季節ごとに斎日を設けて、そこで祈祷と断食をする習慣があるそうです。ポルトガルでは斎日の間は肉食を禁じ、代わりに野菜や魚に小麦粉で衣をつけて揚げた料理を食べるそうで、これが彼らのテンプラです。つまり、かつてのポルトガルの宣教師達にとってテンプラはきっとお得意の料理だったはずで、その料理を布教の小道具として目ぼしい相手に振る舞ったのでしょう。

これが天麩羅のルーツであり、ポルトガルの伝統料理である「ペイシーニョス・ダ・オルタ(Peixinhos da horta)≒菜園で採れた小魚たち」。どう見ても天麩羅そのもの。揚げ置いて冷菜として提供されるよう。生地には塩味がつけられていて、香り付けにナツメグなどの香辛料を入れることもあるらしい。(Adriao, CC BY 3.0, via Wikimedia Commons)

つまりは便乗商法?

一方で、魚のすり身を揚げた料理がなぜ「天ぷら」と呼ばれるようになったかと言えば、この魚のすり身には塩、砂糖、小麦粉を混ぜ合わせてあるからです。米粉ではなくて小麦粉を使っているので「じゃあ、南蛮料理のテンプラと一緒の材料じゃねえか」という雑な論理によって天ぷらになりました。この「魚の混ぜすり身の揚げ」の中には、野菜なんかを混ぜ込んだり芯にしたりするバリエーションもあるので「ますます一緒じゃねえか」となったわけです。もともと「魚の混ぜすり身揚げ」や、食材に衣(主に米)をつけて油で揚げる料理は、奈良時代には既に存在していて、それがポルトガル料理の「テンプラ」が流行したことによって再命名されて合流し、その結果、両者はあまり区別されずに呼称されていたようです。

「徳川家康は大の天ぷら好き」と語られますが、この天ぷらはどちらの「てんぷら」だったのでしょうか。ポルトガルの宣教師は鉄砲伝来の頃から居ましたが、「てんふら」と名前が初めて登場するのは四代将軍家綱の時代、寛文9年の「料理食道記」だそうですから、どちらの可能性もありそうです。

奈良時代には小麦粉や米粉を揚げた唐菓子(からがし・とうがし)が伝来していた。現在も京都の老舗和菓子屋「亀屋清永(かめやきよなが)」で「清浄歓喜団(せいじょうかんきだん)」という唐菓子が販売されている。清浄歓喜団は1個税込¥702とかなり高価だが、亀屋清永のオンラインショップで購入できる。さらに京都市のふるさと納税でも入手可能。(Dokudami, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons)
括坊奚

岡山市在住の野良キュレーター。
日常を豊かにするリーダーズ・ダイジェストを目指しています。
構造に関するコンテンツが好きです。

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