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宇高航路#4 瀬戸大橋と平成衰退期

ルート

昭和50年代に入り、最盛期は過去の話になってはいたものの、瀬戸大橋の大工事を傍目に、宇高連絡船は中四国の大動脈として重責を負っていました。

ところが、国鉄の鉄道連絡船事業は、昭和63年の瀬戸大橋の開通と同時に、本四備讃線(瀬戸大橋線)に業務を移管し、宇高航路から一切の手を引いてしまいます。これが現代ならば、一つの鉄道会社が同じようなルートに二路線も抱える必要がないので、路線の統合は合理的な経営判断だと言えるのですが、当時は国鉄時代です。「我田引鉄」なんて当たり前の時代で、日本人自体が効率化なんて言葉にまだ馴染みがない時代でしたし、世界最大級の吊り橋を通す鉄道輸送の安全面に懐疑的な意見もあり、移行期間を設けず連絡船事業を廃止した国鉄に批判的な声も聞かれました。

大久保諶之丞の胸像。明治22年の讃岐鉄道の開通式の祝辞で「塩飽ノ諸島ヲ橋台トナシ、山陽鉄道ニ架橋連絡セシメバ、常ニ風波ノ憂ヒナク」と瀬戸大橋の夢を語った。(Toto-tarou, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons)

さて、一方の瀬戸大橋での鉄道連絡事業は、近代四国発展のグランドデザインを描き、その実現に尽力した四国のインフラの父、大久保諶之丞が提唱してから、四国の民が脈々とその情熱を受け継いできた、まさに四国の夢であり、鉄道部分の建設にかかる債務が総額で6,300億円と巨額で、さらに利用料が、当時の金利での複利計算で年に500億円ほどかかると計算されていて、しかも、当時の四国の国鉄の旅客収入が年に360億円にすぎなかったにもかかわらず、ゴリ押しにゴリ押しをして実現させた「鉄道計画の常識を逸脱した建設計画」でした。結局、JR発足に合わせて、橋の鉄道専用施設の建設費の一切は、日本国有鉄道清算事業団(国鉄清算事業団)に負担させ、JR四国が負担する利用料はその鉄道部分の維持管理に必要な経費に対応する額のみとする、消えゆく国鉄に債務の一切を押し付けるという「飛ばし」を堂々とやってのけるアクロバットによって解決させました。蛇足ながら、青函トンネルの建設費も同様に処置されましたが、あちらは1兆500億円でした。

ちなみに、国鉄清算事業団はこのように、独立するJR各社から同様に厳選された「まったくいらないもの」26兆円弱を引き受けて、昭和62年に発足し、結果的に無用の努力をして債務を30兆円に増やし、平成10年に解散しました。解散後、固定資産やJR株式などの処分資産は、日本鉄道建設公団(鉄道公団)が継承しましたが、債務については法律によって、国の一般会計に組み入れられ、60年間の国民負担で処理されることになりました。ちなみに国家予算と比較すると、発足にの昭和62年は61.4兆円、解散した平成10年は89.8兆円でしたから、その債務の大きさに驚きます。

とにもかくも、瀬戸大橋の架橋のよって四国と本州は地続きとなり、いつでも(随時性)決まった時(定時性)に人や物を運ぶことができるようになり、しかも輸送時間も大幅に短縮されました。

1986年に撮影された、建設中の岩黒島橋および南北備讃瀬戸大橋。 (Leo-setä, CC BY 2.0, via Wikimedia Commons)

そして、すっかり身軽になったJR瀬戸大橋線の岡山ー高松間の運賃は、通常と同じの距離当たり単価ではじき出された金額1,220円と設定され、橋の利用料は加算されませんでした。一方の自動車の通行料は早島(岡山)ー坂出(香川)間で¥6,300/台だったので、鉄道の割安感が強く、瀬戸大橋線の利用客は開通後6ヶ月で、輸送実績が平均で34,000人/日に達しました。宇高連絡船での輸送実績が平均11,000人/日だったので、その3倍強。想定を遥かに超える利用客で、JR四国は年間で150億円程度の収入を見込めることになり、年間使用料17億円を払っても、十分な収益をあげられる黒字路線となりました。 ちなみに、諸々の条件は変わっていますが、現在でも瀬戸大橋線はJR四国の唯一の黒字路線です。

さて、このようなJR発足の経緯もあって、国鉄の鉄道連絡船事業は、電灯のスイッチのように、パチっと消えてしまいました。宇高航路は打ち捨てられたも同然でした。

実は「JR宇高高速ライン」と名付けられた高速艇「しおかぜ」1隻による定期便のみは存続した。茶屋町-宇野間に短縮された宇野線の快速電車(数年で廃止)と接続が取られて、料金もホーバーの1100円から700円に値下げされたが、知名度が低く、旅客数はほぼゼロで、わずか2年で姿を消した。実際のところ、この事業は宇野周辺の住民対策として廃止前提で開始されたと思われる。 (spaceaero2, CC BY 3.0, via Wikimedia Commons)

一方で、本州四国連絡橋公団(本四公団)は瀬戸大橋建設に1兆1,300億円の巨費を投じました。本四公団は普通車で6,300円の通行料で日平均交通量(台/日)を2万5,000台との見通しを立てて、30年間で1兆7千億円を越える料金収入が期待できると皮算用しました。1兆1,300億円の工事費のうち、上層の道路部分が6,400億円、下層の鉄道部分が4,900億円ですから、本四公団としては金利負担やその後の維持管理費を含めて道路部分建設費の3倍近くの収入を30年間で得ようと計算したわけです。

で、実績はどうだったかと言うと、日平均交通量(台/日)は、開通後半年間で13,053台と、開通記念に博覧会まで開いたのに、見事にスタートダッシュに失敗すると、その後も低調で、平成10年は15,793台、平成16年は13,910台、という、目論見の半分程度の低空飛行を続けました 。

これを車種別に内訳で見ると、軽自動車を含む普通車が8割から9割を占めていて、大型車と特大車が1割前後でした。長距離トラックなどのロジスティックを担う基幹車両が宇高フェリーを使い続けていることが、不振の原因だったことがわかります。

ですから、打ち捨てられた宇高航路にまだ灯りはともっていました。それどころか慌ただしさを失っていませんでした。民間の定期貨客船が、継続して宇高航路を利用したいプロのドライバーたちの受け皿となり、宇高航路は24時間休みなく大型車両を航送し続けていました。

前述したとおり、開通当時から瀬戸大橋の高速道路の料金設定は高めで、往復すれば橋を渡るだけで12,000円もかかってしまいました。橋より利用料金が安く、乗船中は燃料を節約できることに加えて、乗船中は休息を摂ることができる、というメリットがあったので、宇高フェリーの人気は根強く、とくに長距離トラックからの需要は旺盛でした。 また、その頃にはかつての宇野村はもう、7万5千人超を抱える玉野市となっていて、宇高航路を介して高松市の経済圏、生活圏の一部となっていましたから、通勤、通学、通院などの市民の足としての需要もありました。

しかし、日本は平成3年にバブル崩壊、平成9年にはアジア金融危機、平成12年にはITバブル崩壊と、相次いで社会危機を迎え、大不況時代に突入しました。さらに、平成10年には本四道路の神戸・鳴門ルート(神戸淡路鳴門自動車道)が、平成18年には尾道・今治ルート(西瀬戸自動車道)が全通し、また、小泉・福田内閣で、見えやすい経済対策として、「世界一高い」瀬戸大橋の自動車通行料金が段階的に3,874円(ETC搭載普通車)まで引き下げられれたことで。利用者を次第に奪われました。

また、平成10年に底をつけてから平成25年のピークまで、15年にわたり休みなく、ほぼ一直線に値上がりし、ついには5倍以上にまで高騰した原油価格によって、フェリーの燃料費が各社の経営を苦しめ続けました。そして、赤字回避のために運賃を値上げし、さらに客足を鈍らせるという悪循環がついに始まりまってしまいました。

中国が経済大国になったので、もうかつてのような10ドル/バレルのような価格には下がらなくなりました。 (画像引用元:世界経済のネタ帳)

宇高航路の整理が始まります。

平成16年に本四フェリーは、四国フェリーとの共同運航へと移行します。この時に本四フェリーは老朽船1隻を宇野ー直島航路(わずか3.5km)用に残して、主力船を含むほかの4隻をすべて引退させ売却、宇高航路には四国フェリーの第八十玉高丸を使用しました 。この後、日本はサブプライムローンに端を発した世界金融危機に直面し、壊滅的な不景気となりました。そして、21年に本四フェリーは宇高航路から撤退し、津国汽船自体も、平成24年に約4億7000万円の負債を抱えたまま自己破産してしまいました。

宇高航路からの引退した1ヶ月後、宇野港に係船中の津国汽船(本四フェリー)の第十八日通丸。この第十八日通丸は総トン数975tの立派な船体だったが、津国汽船の船は総じて古く小さく見劣りがした。また、競合他社が当初から車なしでの利用も認めていたのに対し、後年まで車なしの徒歩客を受け入れなかった。Olegushka, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons)

こうして平成20年に宇高航路は、1日44往復から40往復に減便した四国フェリーと、1日50往復から1日37往復に減便した宇高国道フェリーの2社体制となりました。

しかし、それからわずか1年後の平成21年に当時の麻生内閣の生活対策として休日1,000円上限の高速道路料金(1,000円高速)が瀬戸大橋にも適応されると、両社は、さらにそれぞれ1日22往復と、半数近くにまで便を減らしましたが、それでも経営は好転しません。相手は1,000円でした。

両社はついに宇高航路の廃止を申請しました。その後、関係自治体からの強い働きかけもあって両社はともに廃止を撤回し、運航を継続(宇高国道フェリーは16便に減便して継続)しました。1,000円高速は各地で渋滞を引き起こし、物流に支障をきたしていましたから、長続きするものではないと思われていましたし、今から見れば一時的だったのですが、リーマンショックにより、一旦100ドル/バレル近くまで高騰した原油がストン!と60ドル/バレルまで下落し、燃料費の高騰による負担が一服したこともありました。

瀬戸大橋の料金の推移。(画像引用元:本州四国連絡道路(ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典))

しかし、不景気はさらに深刻化し、早々に退場した麻生内閣の1,000円高速は廃止されたものの、瀬戸大橋の料金は2,000円前後に設定され、料金的に宇高航路を使うメリットが見いだせない状態が続きました。24年には、宇高国道フェリーはさらに減便し、13往復となりました。また、今から見れば当時がピークだったのですが、そのころ原油は再び急激に値を戻し、100ドル/バレルを超える状態で推移、燃料費がどこまで高騰するかわからない状態でした。そして、さらに平成26年度から瀬戸大橋の料金体系が引き下げられる見通しとなり(実際には消費税の8%化により僅かに上昇した)、収支改善の見込みがないとして、宇高国道フェリーはその年(24年)の10月で運休。宇高航路は四国フェリーの1社体制になりました。

ちなみに、これに先立ち、宇高国道フェリー株式会社は船舶管理会社となり、運航・営業は同社の事業子会社・国道フェリー株式会社に分離させました。フェリーの運航・営業の国道フェリー株式会社は廃業し、海運業から撤退。現在、宇高国道フェリー株式会社はゴルフ事業部として、鮎滝カントリークラブ(高松市)の運営を手がけています。あきらかにバブル「多角経営」時代の遺物でしょう。長い不況を生き残ったこの系統のゴルフ場は、再生案件に比べて利用料も高いですし、だいたい地元では「名門」扱いですが、企業本体がその遺物に吸収されてしまった例はそうはないでしょう。

鮎滝カントリークラブ。「高い戦略性をキープした18ホールの丘陵コース。プレースタイルはキャディ付き。」(画像引用元:うどん県旅ネット

さて、残された四国フェリーは、一層の経営合理化を図るため、という名目で、平成25年に宇高航路の運航を子会社、四国急行フェリーを設立して移管しました。この時点で、いつこの航路から撤退してもおかしくない状況でした。平成26年には宇高航路の早朝・深夜便を廃止して22往復から14往復に減便、運航時間を午前7時より午後8時までに変更して半世紀続いた24時間運航を取りやめました。平成27年には、14往復からさらに10往復に減便しました。

ここで、国と関係自治体による「宇野高松間地域交通連絡協議会」において、関係自治体である岡山県、玉野市、香川県、高松市が船舶修繕費など最大で年間3,000万円の支援を実施することが決まり、平成27年度には1,500万円の補助金が交付されました。

しかし、平成29年には1日5往復にまで減便。もはや幹線物流ルートとしては機能しない状態にまで追い込まれ、またそれを理由として、補助金の交付も打ち切られました。そして、令和元年、最後まで踏み止まった四国フェリーも撤退を決め、12月15日、宇高航路は歴史の幕を閉じました。

詰めかけた多くの人々に見送られて高松港を出発する、宇野行き最終便。

さて、宇高連絡船が消えた瀬戸大橋時代の物流を大いに支えてくれた民間のフェリー会社でしたが、早々に退場した本四フェリーも、宇高国道フェリーも、主戦場は宇高航路であり、本四を結ぶメジャー航路において、その時々のライバル達としのぎを削り、独自性を出し、合理化を図りながら、ほぼ一本槍で戦ってきました 。しかし、四国フェリーは、四国自動車航送として創業して3年目の昭和33年には高松ー土庄(小豆島)航路を開設し、昭和43年から姫路ー福田(小豆島)航路を開設、現在では吸収合併した小豆島豊島フェリーの宇野ー家浦(豊島)ー唐櫃(からと、豊島)ー土庄(小豆島)航路、両備フェリーと共同運行する新岡山(岡山市)ー土庄(小豆島)と、小豆島を核とした4航路を着々と拡充し、宇高航路と合わせて2本柱の経営をしてきました。

宇高航路と宇野の名前が消滅した四国フェリーの航路。(画像引用元:小豆島フェリー

宇高航路からは撤退する四国フェリーですが、小豆島の4航路は残ります。小豆島と本州や四国を結ぶ橋やトンネルの建設計画は、昨今の日本の経済状況では空想にすらなりえません。「船でしか渡れない島」として国内最大の人口を擁する小豆島を結ぶ航路の担い手として、今後も住民の方々のために頑張っていただきたいものです。

63年にわたる宇高航路での営業、お疲れさまでした。

参考文献:

山陽新聞玉野支社編 「宇野港物語」

世界の艦船 別冊 「日本のカーフェリー」

萩原幹生 「宇高連絡船78年の歩み」

岡山市デジタルミュージアム 「就航100周年 宇高連絡船の歴史」

参考サイト、画像元サイト:

Wikipedia、Wikimedia Commons、Googlemap、YouTube、世界経済のネタ帳、うどん県旅ネット、四国フェリーグループ・小豆島フェリー株式会社日本経済新聞旅とのりもの不景気.com玉野市電保存会香川近代史研究日本百景ピクシブ百科事典ひでさんの思いつき日記川上幸義の四国鉄道史かいもん4号のホームページ平成23年度宇野高松航路社会実験検証業務 調査報告書宇野高松航路活性化再生総合連携計画瀬戸大橋線における加算運賃の状況について四国旅客鉄道株式会社の加算運賃についてDIAMONDonline高速道路無料化を22年間訴え続ける! 新党フリーウェイクラブ 和合秀典有限会社センテンス昭和63年度 運輸白書超快速やまやのブログトレたび、など。

括坊奚

岡山市在住の野良キュレーター。
日常を豊かにするリーダーズ・ダイジェストを目指しています。
構造に関するコンテンツが好きです。

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