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宇高航路#2 黎明期から終戦まで

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宇高航路は鉄道連絡船の航路であり、陸上の鉄道と、ダイヤ(運行計画)によって接続されていましたので、その都合上、定期航路の確保は絶対条件となっていました。陸上に比べ海上は自然条件の変化をまともに受けます。定刻を守り続けることは至難で、ほぼ手作業だった接岸作業、濃霧が発生しやすい宇高航路を目視で進む困難、過酷な投炭作業にいたるまで、現場の苦労は大変なものでしたし、連絡船の動力、航海機器には代々、その時代の最新鋭のものが装備されました。

当時は珍しい白い船体をした初代宇高連絡船、玉藻丸。総トン数は約224t。(画像引用元:玉藻丸 大正後期 提供 村瀬幸子氏 「就航100周年 宇高連絡船の歴史」(岡山市デジタルミュージアム 宇高連絡船愛好會)P9)

また、当時の航路は現在とは違い、宇野港の目前の直島水道を通らず、むしろ避けるように、遠回りで制定されていました。直島水道というのは、直島と荒神島、葛島の間の水域に浅瀬が多く、水域も狭くて、当時は帆船しか通行できないとされていたからです。やがて船長らの試行錯誤の結果、明治後期には通行可能であることが判明し、制定し直されましたが、その後も宇高航路は、交通量の変化などによって幾度となく手が加えられ、現在に至るまで宇高基準航路が遵守されています 。

現在の直島水道の航法図。宇高航路は葛島と荒神島の東(図では右)側と直島の西(左)側の水路を航行する。(画像引用元「直島水道における航法(玉野海上保安部HPより)」)

輸送方式も変化していきます。第一次大戦後に本四間の貨物輸送の需要が急激に増え、大正10年に貨車航送がはじまりました。はじめは貨車を一輌一輌、チェーンブロックで宙吊りにし、手作業で「艀(はしけ)」に載せ、親船である小型蒸気船が、その艀船2~4隻をロープで繋いで曳航する仕組みでした。そして、昭和5年から第一宇高丸で自航式貨車航送が開始され、それまでの煩雑な作業が飛躍的に効率化されました。

貨車を載せた台船(艀船)を曳航する親船。(画像引用元:貨車渡艀 大正後期 撮影者不明「就航100周年 宇高連絡船の歴史」(岡山市デジタルミュージアム 宇高連絡船愛好會)P10)

第一宇高丸は、宇高航路最初のディーゼル船で、従来の蒸気タービンに比べ高い操縦性と、圧倒的に機関室の水密性が確保できました。また、かつて国鉄で最も一般的に使われた有蓋式の貨車である、ワム型15t積貨車が10輌搭載可能でした。四年後に就航した同型の第二宇高丸と合わせて、宇高航路の貨物輸送能力は格段に進歩しました。この2隻は宇高航路で長らく活躍し、第一宇高丸は32年間就航、第二宇高丸も29年後に宇高航路からは外れましたが、38年間一線で活躍しました。

貨車を航送中の第一宇高丸。第一宇高丸の総トン数は約300t強で、宇高航路最初の自航式貨車輸送船として高度成長期前まで活躍した。(画像引用元:第一宇高丸 昭和期 撮影者不明「就航100周年 宇高連絡船の歴史」(岡山市デジタルミュージアム 宇高連絡船愛好會)P11)

現在も、当時の第一宇高丸型の専用航走場であった宇高丸バース跡(宇高連絡船第二バース跡)の一部がわずかながら、当時を偲ぶ唯一の遺構として残されています。

写真は干潮用の可動橋に接岸した第一宇高丸。(画像引用元:探検コム「鉄道連絡船の世界」)
第一宇高丸にワム1形有蓋貨車を10輌押し込み、積み込み作業が完了したところ。(画像引用元:探検コム「鉄道連絡船の世界」)

このような鉄道連絡船の最大の特徴は、船内にレールが敷かれていて、陸上の可動橋を仲介として貨物の積み下ろしを直接行う事ができる点でした。可動橋の先端には連絡船に繋がるための特殊なレールが付いており、爪の先のような形状から「爪レール」と呼ばれていました。

可動橋の先端に取り付けられた爪レール。連絡船の着岸後に、貨車積込口に落とし込み接続しました。(画像引用元:可動橋用特殊爪レール 宇高連絡船愛好會蔵「就航100周年 宇高連絡船の歴史」(岡山市デジタルミュージアム 宇高連絡船愛好會)P19)

しかし、宇高航路の貨客輸送量は、高徳線、土讃線の両線がそろって全通した昭和10年から急増し、早くもキャパオーバーとなってしまいました。早急に輸送能力を向上させるために、当時の鉄道省は青函航路に準じた大型の車両航送システムの導入を決定し、即座に着手しましたが、折り悪く、太平洋戦争のために中断してしまいました。

青函連絡船、翔鳳丸(3,460トン)の出港風景。翔鳳丸型はワム換算で25両の積載能力に1,000人弱の旅客能力がありました。宇高丸型は312トンでしたので、まさに桁違いの大きさです。青函航路には翔鳳丸型が4隻就航していました。(画像引用元:青森県所蔵県史編さん資料 青函連絡船出帆の光景

そして、戦後の混乱期に入り、復員や引き揚げ、帰郷者、進駐軍の輸送など…、ただでさえ逼迫していた輸送能力は限界点をあっさり超えてしまいましたが、乗船定員は無視され詰め込まれ、旧態の「はしけ」による曳航や、機帆船(機付き帆船。機械と帆で走る小型の木造船)を傭船したり、関門トンネルの開通により不要となった関門航路の小型の鉄道車両渡舟(なんと外輪船!)五隻をまるまる、航送場設備ごと転属させ運航させてみたりして、できる限りの無茶と度胸と勢いで応急対応しました。もちろん第一・第二宇高丸もその乾舷が低い車両甲板へ、貨車のみならず旅客も満載して活躍しましたが、燃料である重油の確保は大変困難でした。

関門航路(関森航路)で活躍し、のちに宇野航路に転籍した、第三関門丸。舷側中央にあるホイールが生み出す抗力によって進む外輪船でした。これが5隻フル稼働しました。 (画像引用元:「宇野港物語(山陽新聞玉野支社編)」P93)

参考文献:

山陽新聞玉野支社編 「宇野港物語」

岡山市デジタルミュージアム 宇高連絡船愛好會 「就航100周年 宇高連絡船の歴史」

参考サイト、画像元サイト:

Wikipedia、Googlemap、玉島海上保安部、探検コム、青森県、u8のブログ香川近代史研究ピクシブ百科事典青函連絡船と津軽海峡、など。

括坊奚

岡山市在住の野良キュレーター。
日常を豊かにするリーダーズ・ダイジェストを目指しています。
構造に関するコンテンツが好きです。

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