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宇高航路#1 宇野港と高松港の誕生

ルート

岡山県の宇野港と香川県の高松港をつなぐ海上ルートを唯一運行している四国フェリーが、2019年12月16日での航路事業の休止を決めました。

現在の宇高航路の唯一の就航線、第一しょうどしま丸(三代目)。現在は「四国フェリー」+うどん県マークの船側カラーリング。 (663highland, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons)

このルートは、宇野と高松から「宇高(うこう)航路」と呼ばれます。最初に国鉄によってはじめられた連絡船事業が「宇高(うこう)連絡船」と呼称したために「うこう」となりました。しかし、海上保安庁の呼称なんだそうですが、「うたか」と呼んでも間違いではありません。かつて国鉄、四国フェリーとともに宇高航路で運行営業していた「宇高国道フェリー」の社名も「うたかこくどうフェリー」と読みます。ただし、google日本語では「うたか」と打って「宇高」とは変換されません。

宇高国道フェリーの社名にある「国道」という言葉の通り、この宇高航路は国道30号線の海上部分にあたります。国道30号線は岡山市のほぼ中心部、北区大雲寺交差点を起点として、この宇高航路を通って、高松市のほぼ中心部、中新町交差点を終点とします。国道30号線が指定されたのは昭和27年になってからのことで、瀬戸大橋を通る瀬戸中央自動車道は、国道30号のバイパス道という扱いです。

国道30号線の経路概略図(Phiror, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons)

宇野というところは、もとは宇那という名の入り江で、砂浜と、その後ろにさし迫った山までの、わずかな平地で漁民が細々と暮らしているにすぎない、村とも呼べない寒村でした。江戸時代に入って、入り江の砂浜を干拓し、付近一帯に入浜式の塩田を整えました。入浜式塩田というものは広大なものですから、この時、もともとあった平地の2倍以上の、しかも遮るもののまったくない、まっ平らな、準平地のようなものができました。この塩田により宇野は村としての体裁を整え、ついには100軒を超える家が建つまでになりました。塩田によって仕切られた海は宇野湾と呼ばれ、湾内は水深があり、船の碇泊にはよい。と、されていましたが、江戸時代から瀬戸内海航路で潮待ち港として栄えたのは、宇野湾から南西に約5kmほどにある日比港で、焚場(たでば)として大いに賑わい、明治に入ってもその地位は変わりませんでした。日比村には、廻船問屋や船具問屋、遊郭街までありました。

大正時代の日比港。宇野港の築港後ですらこの賑わい。(画像引用元「宇野港物語(山陽新聞玉野支社編)」P22)

焚場とは、今で言うドックのようなものです。木造船の牡蠣や海苔を取り除き、虫を防ぐため船底を火と煙でいぶすことを「焚る(たでる)」と言っていました。日比港は一潮(1回の満干潮)で船を焚れる港として人気があったそうです。これに対し、宇野湾は「舟着悪し、舟掛(碇泊)善し」とされ、湾内に停泊はできても、着岸はできないとされていました。

宇野の名前が初めて世に出たのは、明治に入り、富国強兵政策をとる政府の国営製鉄所の候補地のリストに入ったことでした。即座に大規模な港湾施設を展開できる土地として適した塩田が何枚もあり、湾内は浚渫は必要ながら水深がある。これらの理由で宇野に白羽の矢が立ちました。 結局、石炭の産地から遠かったため落選し、北九州の八幡に建設されましたが、これを期に、宇野湾に築港をしようという計画が、歴代の岡山県知事や海軍によって立てられるようになりました。

明治30年測図の宇野との比較。塩田は塩の積み出しや声援用の燃料運搬に使う水路で取り囲まれていて、浮き州になっていた。例えば、広潟塩田(旧図右上)の防波堤は、現在の築港商店街の一本北の東西の通りにあたる「老松通」となって残っている。同塩田の周囲を囲む水路は「汐入川」と呼ばれ、現在も約半分が暗渠となっているが、細々と流れ続けていて、当時の面影を残している。(この地図は、時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」((C)谷 謙二)により作成したものです。)

転機は明治の中期に訪れます。積極的な経営で知られた山陽鉄道が、 自社の岡山駅と、明治37年に買収した讃岐鉄道の高松駅とを連絡する計画を起てました。その岡山側の玄関口として、高松から瀬戸内を挟んで北のほぼ対面に位置する宇野湾が築港候補として上がりました。理由は国営製鉄所の時と同じです。そして、当時の岡山県知事は檜垣直右(ひがきなおすけ)でした。彼は、典型的な長州藩士で、強権的な合理主義者で、かつ、実行力にも優れていました。自らが公益に叶うと判断すれば、議会などお構いなしの専横政治を敷き、最短ルートで目的の達成を目指しました。彼はこの鉄道計画に賛同。明治38年に事業費388,700円の宇野築港事業を提案すると、強権を発動、県をあげての大反対を押し切り、翌39年には原案執行を告示し、わずか1年で起工にまでこぎつけました。単純に、給与所得から明治30年代の物価と今の物価を比較してみると、明治38年の年収が291円で、平成30年の平均給与が4,407,000円なので、約15,000倍強。これを元に、宇野港の築港事業費を現在の60億円弱と仮定してみます。当時の日本は日露戦争で大金欠でしたが、それにしても、そんなに激烈な反対運動を展開するほどの金額の工事か?と、思ってしまいます。後の瀬戸大橋の事業費が1兆1300億円であることを考えれば、そのわずか0.5%にすぎません。公共工事に対する金銭感覚は、当時と現在では全く異なると考えたほうがよさそうです。どちらが感覚として健全なのかと言えば、多分前者なんでしょうが、かつての金本位制の時代の金銭感覚と、現在の歯止めが効かなくなった管理通過体制での金銭感覚は、天地ほども違うようです。ちなみに、檜垣知事は強引な県政運営の責任を問われ、宇野港の起工式の3日前に更迭され、2年間の休職を命じられています(当時の県知事は官選でした)。

檜垣直右第5代岡山県知事。宇野港の生みの親。彼の銅像が現在も宇野港の緑地で海を見守っている。(岡山県『岡山県郡治誌』、1938年, Public domain, via Wikimedia Commons)

山陽鉄道はまず、傘下に三洋汽船商社という海運会社を作り、宇野線の免許の見通しもないまま、明治36年に多尾連絡船(多度津港-尾道港間、児島丸)を就航、岡山三蟠港-高松港間航路(玉藻丸)を開設させました。児島丸と玉藻丸は同型船で総トン数223.5t、両航路とも金毘羅参りの参拝客の輸送を当て込んでいました。

岡山三蟠港-高松港間航路では、山陽鉄道岡山駅から、東に2kmほど進んだところを南北に流れる旭川の京橋まで荷車と人力車で貨客を運び、京橋に設けた船着き場から河口の三蟠港まで喫水の浅い小型船、旭丸(24トン)で搬送し、沖合に碇泊している玉藻丸に乗換えて高松を目指しました。販促のため、連絡船の利用客には、岡山駅から京橋までの荷車と人力車の代金が免除されていました。

明治中期の京橋。旭川からおそらく西を遠望している。(瀬川光行 編『日本之名勝』,史伝編纂所,明33.12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/762809)

しかし営業を開始してみると、川岸の船着き場は予想を超えて悪天候に弱く、加えて、春の増水期と満潮時でないと、浅喫水船の旭丸をしても京橋の船着き場に入れないという致命的な欠陥が判明しました。そこで荷車と人力車での輸送距離をさらに下流まで延長して対応しましたが、荷車と人力車の代金はもともと実質無料。三洋汽船がその費用を負担しサービスで提供していたので、それらの請求額は大いに利益を圧迫しました。また、中九蟠(岡山三大河川の吉井川河口)、小串(児島の東端)、土庄(小豆島)と次々と寄港させ、中継地を増やすことにより収益を伸ばそうとし、実際に成功をしましたが、航路自体は瀬戸内を循環するものにすっかり変質してしまいました。これらを刷新、統合する新たな鉄道連絡航路である宇野線の敷設が早急に求められ、その仮免許は明治37年に、山陽鉄道が讃岐鉄道を吸収合併したと同時に認可されました。

山陽鉄道1号蒸気機関車。後の鉄道院200形蒸気機関車。 (日本国有鉄道工作局/Kone, Public domain, via Wikimedia Commons)

宇野という、塩田が珍しくない瀬戸内では、取り立てて語られるような魅力も歴史も持たなかった村の運命は、この瞬間に拓けました。宇野港の誕生です。

明治38年からの築港工事の平面図。塩田の先をさらに埋め立てて(朱色部分)、鉄道駅のある巨大な突堤と岸壁を造成しました。(画像引用元『宇野築港概誌』(岡山市立中央図書館蔵)所載の地図)

山陽鉄道は明治39年に国有化されます(傘下の三洋汽船商社とその航路も国営化されます)が、国の直轄事業として計画は続行され、岡山駅から宇野村まで、現在の干拓される以前の児島湾を迂回する形で、国鉄宇野線が四国連絡用に敷設されました。

宇野線の湾曲を見れば、児島湾がいかに干拓されるかわかります。その湾曲のおかげで、後に敷設される瀬戸大橋線は、途中まで宇野線と路線を共用できました。(埋め立てが進んだ現在では、岡山駅ー宇野駅間は、時間によってはバスに座ったほうが早く着くようになりました。googlemapではバス利用が推奨されることが多いです。)

同時に寒村に似合わぬ広大な宇野駅も整備され、明治43年、宇野線と宇高航路は同時に開業しました。あわせてその前日に多尾連絡船と岡山港-高松港間航路は廃止され、児島丸と玉藻丸がそのままスライドして宇高航路に就航しました。

築港工事中の宇野。湾内10万㎡弱を干潮時に海面から3.3mの水深に掘り下げる浚渫工事、15万㎡弱の埋め立て地の造成工事、70m強の防波堤の築造、岸壁を石垣などで保壁する作業…。重機もない時代、5年の工期を経て、明治42年に港は完成した。(画像引用元「宇野港物語(山陽新聞玉野支社編)」P29)

さて、次は高松です。

宇野村のみならず、高松もこの日を境に、名実ともに四国の玄関、四国経済の中心地としての未来が決定しました。

高松という都市は、生駒親正が豊臣秀吉から讃岐の知行を得た際に、それまで讃岐の中心地であった東讃の引田を手狭として、高松郷の西の地(玉藻浦野原)に巨大な海城を築城したことに始まります。野原は干拓に適した地形で、正親は、この地に近世城郭を、その城壁が瀬戸内海に直接面するように築城し、これをもって防波堤としました。同時に海水を引き入れて三重の堀を造成し、内町港も築造。そして、干拓によって平地を広げ、城下町を整備し、今の高松市の礎を作りました。

日本初にして日本最大の海城、高松城。そして広大な城下町。 高松城下図屏風 。(投稿者がファイル作成, Public domain, via Wikimedia Commons)

干拓に適した土地であったからこそ高松の城下町は発展をしましたが、北面に広がる海は遠浅で、高松の海は水深は浅く、干潮時には、貨客を艀(はしけ。自力の航行能力を持たないイカダのようなもの)まで人が背負って干潟を歩いて運搬していました。明治になって田中庄八という人物が、高松藩主の松平家から金比羅丸を買い入れ(明治7年)、神戸・大阪への定期便を就航させたのち、明治13年に浅瀬7000坪を埋め立て、そこに汽船問屋を設け、その先に全長75間(約136.5m)の「田中の波止場」を築きました。この波止場のおかげで、ようやく干潟の背負運搬は終わりましたが、それでも艀は必須であり、小型輸送船ですら港に直付することはできず、明治20年ころになっても利用できる船舶は150トン級程度の小型船まででした。

「田中の波止場」の正確な所在はついにわからず。この写真は第一期工事によって整備された西防波堤か。(画像引用元 今昔写語「高松港」

その後、近代港湾としての整備が本格的に始まったのは、市制が実施されてからで、明治30年に拡張の第1期工事が起工、東の中川港から西の堀川港までを浚渫(しゅんせつ)して内港とし、外側に東西の突堤を築き、数百トンの汽船が繋留できるようにしました。この成果をもとに高松市では、市をあげての寄港の陳情活動をしたところ、さらなる整備拡充を条件に、大阪商船から寄港の確約をもらい、喜び勇んだ市は第1期の竣工後、間髪をおかず、第2期工事を起工、37年に竣工した結果、160mの船留突堤、153mの桟橋、荷揚げ場が新設され、東防波堤は継ぎ足され、港湾はさらに浚渫され、大型の鉄鋼船の寄港をも可能にしました。

明治期から戦後にかけての高松港の移り変わり。(出典:「重要港湾」(四国地方整備局 高松港湾・空港整備事務所))

一方で、金毘羅参りの玄関口である丸亀港・多度津港からの陸運を担う、丸亀ー琴平間の運送を明治22年に開通させた讃岐鉄道が、明治30年には路線を高松まで延伸させました。

初代高松駅。跡地には現在、香川県立盲学校が建っている。(高松市歴史資料館, Public domain, via Wikimedia Commons)

丸亀ー高松間は汽船の便もあって、計画当時は収益性の向上に関して多少の疑問があり、用地などを最小限に止めるため、高松駅は市の西端に建設され、高松港までは2km近く離れていました。駅舎も簡素なものでした。しかし、宇高航路の開設に当たって東の高松港近くの海辺まで延伸し移転。駅舎も威風堂々とした木造2階建てとなり、丸亀・多度津にかわり金毘羅参りの新たな玄関口、ひいては四国一のターミナル駅となりました。

2代目高松駅。現在の高松駅とほぼ同じ場所に立地。昭和35年に焼失した。(See page for author, Public domain, via Wikimedia Commons)

参考文献:

山陽新聞玉野支社編 「宇野港物語」

宇野築港事務所 「宇野築港概誌」

萩原幹生 「宇高連絡船78年の歩み」

岡山市デジタルミュージアム 「就航100周年 宇高連絡船の歴史」

参考サイト、画像元サイト:

Wikipedia、Googlemap、今昔マップ on the web、国立国会図書館デジタルコレクション、今昔写語、四国地方整備局 高松港湾・空港整備事務所、岡山県、玉野市、香川県、高松市、香川近代史研究いよぎん地域経済研究センターピクシブ百科事典、など。

括坊奚

岡山市在住の野良キュレーター。
日常を豊かにするリーダーズ・ダイジェストを目指しています。
構造に関するコンテンツが好きです。

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