昭和21年に、運輸省鉄道総局はGHQから三隻の車載客船の建造許可取り付けに成功。財政上の困難を承知で、中断していた大型車両航送システム導入計画を復活、新型連絡船の建造を強行する決定を下し、即座に造船が始まりました。そして、対応する大型可動橋などの水陸連絡設備完成を待って、昭和24年から車両航送を開始しました。これら3隻の第一船が「紫雲丸(のちに瀬戸丸と改称)」、第二船が眉山丸、第三船が鷲羽丸です。3隻は「紫雲丸型(のちに瀬戸丸型)」と呼ばれ、ともに車両甲板に船内軌道が2線敷設され、ワム型15t積貨車が14輌積載可能で、旅客定員が1,500名を積載できました。

この中で、取り立てて有名な連絡船が「紫雲丸」で、就航から9年間に5度に渡って事故を起こしました。特に5度目の事故は後に「紫雲丸事件」と呼ばれる大惨事でした。

昭和30年5月11日の早朝、視界が50m以下の濃霧の中、高松港を出港した紫雲丸は、女木島の沖合で第三宇高丸と衝突しました。

両船ともレーダーでお互いを確認していましたし、両船ともエンジンを停止して惰性で航行していました。しかし、紫雲丸の船長は、互いの距離が2.5kmほどの距離になって汽笛を発した後、何故か第三宇高丸に衝突する左側に舵を切ってしまいました。船舶はお互いを左側に見ながらすれ違うという規定がありますから、本来なら右側に舵を切らなくてはなりません。もしくはそのまま直進していたとしても、第三宇高丸はすでに右側に舵を切って惰性航行していたので、すれ違うことができた筈でした。汽笛の音を左舷側から聞いた第三宇高丸はお互いの距離が広がったと解釈して通常航行を開始、全速力で、左に回頭する紫雲丸の右舷船尾部分の機関室を直撃しました。濃霧でしたので、衝突の100m前に初めて紫雲丸を目視しましたが、そこから期間停止し左一杯に転舵してもどうしようもありません。

船首の直撃を受けた機関室では、エンジンルームの復水機と主配電源装置が爆発。船内は停電し、大破口から膨大な浸水が始まりました。その際、水密扉は電動で機能しませんでした。乗客は次々に第三宇高丸に飛び移りましたが、たまたま修学旅行で乗船していた小中学生の数多くが、急激に傾斜する真っ暗な客室でパニックとなり、船内に取り残されたりして犠牲となりました。6分後の午前7時2分、紫雲丸は横倒しのまま沈没します。この事故の犠牲者は168名で、内訳は乗組員2名。一般乗客58名。修学旅行中の先生と生徒108名(教師8名、生徒100名)で、生徒100名のうち、81名が女生徒でした。動揺と恐怖のあまり第三宇高丸に飛び移ることができなかった女生徒も多かったようです。2名の乗組員犠牲者のうち1名は船長で、衝突後、放心状態だったのか、不可解な言動をした後に退船を拒否してブリッジに居残り、船とともに海底に沈みました。彼の自殺により、事件の原因は究明されないままとなってしまいました。

この事故の後、海上保安部による停船勧告基準が厳しくなり、宇高連絡船は一切人身事故を起こすことはありませんでした。しかし、停船勧告が頻繁に出されるようになったことが輸送上の障害となってしまい、安全と利便性がバーターのような関係になってしまいました。これが、より安全でより利便性が高い、架橋による壮大な本四連絡構想、瀬戸大橋の建設機運が高まる原因となりました。さらには、その計画の段階で、本州四国連絡橋の3計画ルートのうち、児島・坂出ルートが最初に建設される決定にもつながりました。
また、数多くの小中学生が溺死する事態となったことから、この事件の直後、文部省は学習指導要綱の中に全国の小中学校に対してプールの設置と水泳授業への取り組みを明記し、小中学校の体育科目で水泳が必修となりました。義務教育の課程で水泳の授業が必修化されている国は世界で日本くらいです。
そして、従来、鉄道連絡船で行われてきた連絡船による客車の航送が完全に中止されるとともに、宇高航路で一部重複していた上下航路が完全に分離されました。


紫雲丸は引揚げ後、修復改造工事を受け、瀬戸丸と改称し、再就航しました。 瀬戸丸改名後も相手船を沈没させる衝突事故を起こしはましたが、死傷者を出すことはなく、次世代新鋭船の就航に合わせて終航となりました。

瀬戸丸型(紫雲丸型)車載客船3隻の老朽化による取替えと、増え続ける貨客需要に対応するために建造されたのは「伊予丸」「土佐丸」「阿波丸」「讃岐丸」の4隻で、「伊予丸型」と呼ばれ、伊予丸は昭和41年に就航しました。当然ながらディーゼル船で、コンパクトな2,310馬力のエンジンが2機搭載されていました。船によってバラつきがあるものの概ね旅客定員は2,000名から2500名程度、グリーン船室があり、 遊歩甲板の船尾部は露天甲板になっていて、立ち食いのうどん屋がありました。また、車両甲板には船内軌道が3線敷設され、車両搭載数はワム型15t積貨車が27輌積載可能でした。
そして、この伊予丸型が宇高航路の最後の鉄道航送船となりました。


JRが宇高連絡船事業から撤退したのちに取られたアンケートで、一番印象に残った思い出の中でダントツの1位を獲得した「連絡船うどん」はこれら伊予丸型4隻の立ち食いうどん屋のことです。

ほかにも、宇高航路には、昭和47年から、「かもめ」と「とびうお」という、日本の鉄道連絡船での唯一の急行便が就航していました。山陽新幹線開業から半年後に就航した、ホバークラフトです。ホバークラフトは急行扱いで、乗る際には国鉄・JRの乗車券に加えて船急行券(乗船便指定、座席は自由席)を別途料金で購入する必要がありました。エンジンはヘリコプターと同じガスタービンで、時速80kmで海面を飛ぶように走りました。 キャッチフレーズは「海の新幹線」で、カラーリングも白地にブルーのラインで新幹線に合わせていました。

伊予丸型が片道60分の航路を23分で結ぶことができました。乗り場は宇野では駅ホームの海側先端、高松では駅舎すぐ脇の海際だったので、列車からの乗り継ぎに便利で、実際に岡山から新幹線に乗り換えるビジネスマンに好評で、連日満員。営業的に大成功を収め、これを機に、民間航路で相次いで高速艇の運航が始まりました。
また、戦後の高度成長期にはいり、日本のモータリゼーションが急激に進展すると、自動車を航送する需要が旺盛になってきました。宇野港にも第一突堤が完成し、新規の定期船の発着が可能になると、民間の貨物定期航路が相次いで就航しました。
まず四国フェリーが、昭和31年に四国自動車航送の名で開業し、宇高航路に参入しました。

昭和33年には日本通運も参入しました。日本通運は36年から津国汽船(昭和24年から個人でありながら自動車の航送を宇高航路で行っていた津国氏がこのために法人化)と提携し「日通フェリー」となり、ついに昭和59年からは津国汽船が日本通運から免許を引き継ぎ、「本四フェリー」の名称になりました。

そして昭和36年からは宇高国道フェリーが、宇高航路に参入しました。

これらの民間フェリー会社との競合により、国鉄連絡船の集客率は、ホバークラフトを除いて徐々に悪化していきました。マイカー時代が到来したということもありますが、民間のフェリーは24時間運航を実施するなど便利でした。国鉄も運賃引き下げやダイヤ改正などで手を打てばよかったのですが、逆に、当時の国鉄は労使問題が表面化していて、労働組合は、ストライキをたびたび起こし、遵法闘争と呼ばれるダイヤの遅延による嫌がらせ行為をし、内向きのイザコザを繰り返した結果として、国民の国鉄離れが進んでしまいました。また、昭和50年に山陽新幹線の岡山駅ー博多間が開通したことで、それまで四国に向かっていた観光客の流れが、九州方面に流れたことも悪化に拍車をかけました。
そして昭和53年、ついに瀬戸大橋が着工されました。
参考文献:
萩原幹生 「宇高連絡船 紫雲丸はなぜ沈んだか」
山陽新聞玉野支社編 「宇野港物語」
世界の艦船 別冊 「日本のカーフェリー」
参考サイト、画像元サイト:
Wikipedia、Wikimedia Commons、Googlemap、旅の記録と古老の記憶、宇野港「連絡船の町」プロジェクト、香川近代史研究、sensagent.com、ピクシブ百科事典、4サイクルディーゼル機関の技術系統化調査、など。


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